よっしいブログ  「母が死んだ。」

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母が死んだ。

 

昭和8年生まれ。

90歳だった。

 

母は働き者だった。

看護師として70歳まで3交代のローテーション勤務で働いた。

バイクにまたがり夜勤に出る彼女をよく見送った。

私が起業すると、看護師として支えてくれ、

コロナが日常になる3年前まで手伝ってくれた。

 

母はプライドを持っていた。

若いころから救急病院を勤務先として選び、

人の生き死にを支える現場に居たがった。

「ちまちました仕事は嫌い」「バーっと切って、バーッと縫って、人の命を助けるのが好き」

点滴は上手いと自分で言っていた。

余りに過酷な現場を選んだ精で、肉類は全く食べられなかった。

 

母は、せっかちだった。

外食では自分が食べると人を待つのが嫌でイラついていた。

温泉でも洗って入って、はいおしまい。

「ゆっくり」「まったり」「のんびり」と真逆の人だった。

 

母は、真面目に昭和を生きていた。

田舎で育ち、戦争が子供時代にあった。

田舎の村感覚を強く感じ、世間体を自分の生き方の背骨に持っていた。

博打好きの夫の尻拭いをし続けながら、多額の借金を払いながら、

子供には「片親だからといって後ろ指を指されないようにしなさい」といつも言っていた。

母1人子1人でも子供には幸せになって欲しいと願っていた。

 

母は、怖がりだった。

人の生き死にの現場にいながら、

お化けとへびが怖いと言っていた。

 

母は、たったひとりの子供を愛していた。

言葉や仕草は真逆だったが、間違いなく子供を愛していた。

 

母は、子供に迷惑をかけずに死にたいと願っていた。

母は、自分の家で死にたいと願っていた。

母は、治らない医療は必要ないと言っていた。

母は、「なんで癌なんかになったんだろう。なんの罰が当たったんだろう」と言っていた。

母は、「早く死にたい」と言っていた。

 

母は、癌になった。

半年は普通に生きた。

その後2カ月は日に日に痛くてだるそうだった。

痛み止めの薬をもらい「楽になった」と言っていた。

かわりにコロコロこけ出した。

転倒し大腿骨頸部骨折で入院する前の日まで、家族の洗濯物を干していた。

人工骨頭置換術を行い、10日間の入院で退院した。

翌日から8日間、私のデイを使い、

その後、5日で死んでしまった。

 

余りに見事で、余りにせっかちで、

余りに迷惑をかけず、疾風のように駆け抜けて行った。

 

もっと、側に居て欲しかったよ。

もっと、優しくさせて欲しかったよ。

もっと、親孝行したかったよ。

もっと、迷惑かけてくれてよかったのに。

 

最後は、孫たちが側に居ない、私だけが見ている時を選んだ。

最後は、笑顔だった。

最後は、なにも言わなかった。

そして、最後に涙を一筋流した。

 

あの涙はなんだったのか。

 

母1人子1人の65年1ヶ月17日が終わった。

ずっと一緒に居て、空気以上に慣れていた2人の日常に

ぽっかり穴が空いた。

 

今私は、気づくとホロホロと涙を流している。

そして涙を拭きながら、母の最期の涙の意味を考えている。

 

私は、介護の仕事をしている。

介護とは、高齢者の最後のステージを彩る仕事である。

さて、私は、母の最期を彩れたろうか。